源平史跡コース(10km)・新熊野史跡コース(20km)


藤戸源平合戦

源氏の陣地は、現在山陽ハイツにある高坪山から日間山にかけて、平氏の陣地は、藤戸海峡を挟んで種松山東北の山すそ一体に構えていた。合戦は、寿永3年(1184)12月7日に行われ、源氏の武将・佐々木盛綱が極寒の海を馬で渡り、平家の人に一番乗りに斬り込み、源氏方が大勝した。その裏には、盛綱が若い浦人に海峡の浅瀬を教わりながら、先陣の功名を立てたいため、恩人の浦人を刺し殺し、海に沈め、浦人の母が我が子をころされたのを恨み、「佐々木と言えば笹まで憎い」と小山の笹をむしり取ったという話があった。謡曲「藤戸」には母親の切々たる思いがかかれ、武将の名声と共に浦人の哀話とが人々の共感をよび、藤戸源平合戦を今に伝えている。

先陣庵

源平合戦のとき、乗り出し岩から海を渡り、真っ先に馬で乗り上げたところで、先陣の地を記念するため寺を建立した。今では真言宗西明院に先陣庵が残っている。


浮州岩跡

「浮州岩」は、長さ9m・3.6m・厚さ1.2mほどの大岩で、藤戸海峡にあって常に海面に浮き出て見えたことから、この名があるといわれている。この岩は「藤戸石」といわれ、今は京都の醍醐寺三宝院の主人石として庭の中心に据えられている。その藤戸石のふるさとが、「浮州岩跡」である。

藤戸寺

竜海(藤戸海峡)出現の観音を祀ってある盛綱再建の真言宗の寺。盛綱木像や源平合戦図、県指定重要文化財の石造五重塔婆(鎌倉中期)、藤戸寺西側の三叉路に立つ源平合戦八百年記念碑などに昔をしのぶことができる。


乗り出し岩

山陽ハイツ近くにある乗り出し岩は、源平合戦寿永3年(1184)に、源氏の武将佐々木盛綱が極寒の海を平氏の陣に斬り込んだ際、この岩から馬を入れたと伝えられている。

経ヶ島

天城小学校校庭につづく、倉敷川沿いにある。盛綱橋近くにある小さな岩丘の「うばめがし」の樹林の丘で、源平合戦後に藤戸寺で法要が営まれた際、書写した経をこの島に埋めて経塚を建てたところから、この名前がついたといわれる。

五流尊瀧院

奈良時代、紀州熊野の「役小角」(えんのおずぬ)が伊豆に流され、その弟子義学らが熊野の御神体を奉じて、瀬戸内海を漂流し、今の熊野神社のあるところに鎮座したのが始まりである。ここに鎮座された熊野権現を中心に、平安・鎌倉以降この地が大いに栄えた。明治の神仏分離令により五流尊瀧院は修験道の本庁として全国に知られている。

 五流尊瀧院の境内には、頼仁親王の御庵室や護摩堂、児島高徳の誕生碑があり、毎年旧暦1月23日夜から24日朝にかけて「お日侍祭り」が催され、全国から三伏が集まってくる。また、熊野神社近くには後鳥羽上皇供養の石造宝塔(国指定重要文化財)、康正3年(1457)に造られた梵鐘、文政3年(1820)に再建された三重塔がある。


熊野神社

熊野神社本殿は、6棟の社殿に向かって右側に小さい社が1列に並んで南面している。第一殿、第三殿〜第六殿は県指定重要文化財で、岡山藩主池田光政が正保4年(1647)再建したものである。中央の第二殿は国指定重要文化財で春日造り、明応元年(1492)1の再建。この辺りは深い杉木立に囲まれていて、絶えず野鳥の声が聞こえ、深山の趣きがある。